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2009年10月24日

基礎研究による社会貢献


祐天寺住職 巖谷勝正「明顕雑想 第一集」より抜粋

  研究には大きく分けると基礎的研究と開発的研究があります。自然科学でも社会科学でも共通してこのように分けられると思います。今、分かりやすいように自然科学の領域で話を進めますと、基礎的研究とは言ってみれば社会の役に立つかどうか全く見当もつかないけれども、ある1つの真理を探究する研究と言うことができます。実際1人の研究者にしてみれば、何のためにこんなことをしているのだろうと、いつも疑問が湧いてくるような研究です。

  これとは対照的に開発的研究とは、今すぐ役に立たせるためにはどうしたら良いかを考える研究です。これはゴールが明確ですから、自分の研究が社会の役に立ったかどうかは身体で感じ取ることができます。あるときには数字で社会への貢献度を算出することができ、具体的にわかるわけです。もし失敗しても、その原因を分析して次の目標に生かすことができ、仕事をしている間は生きがいを実感できるのではないでしょうか。

  基礎的な研究というものは決して短期的なものではなく、じっくり腰を落ち着けて、ある現象を捉えていくわけです。それは真理のほんの一端を現している現象かもしれません。しかし、そこに隠されているものは何かを追求していくわけです。これは周りの人から見れば、非常に自己陶酔というか自己満足の世界に見えるかもしれません。また本人も知らず知らずのうちにそこにのめり込んでいったり、そのうちに私の人生は何であったのかと悩むかもしれません。

  しかし、ここで私の言いたいことは、求めているものが真理であるならばそれは決して無駄にはならず、たとえ本人は気が付かなくてもそれは立派に社会に貢献しているということなのです。

  確かに基礎研究というのは周囲の生活と全く関係のない部分で仕事をしていくわけですから、周囲の人たちはお金ばかり使って何をしているのだろうと言うかもしれません。しかし、もしその研究が真理を求めているのであれば、それは誰かが何らかの形でやらなければならないことなのです。それが真理を求める1歩となるからです。人類の歴史を振り返って見ればそれは明らかです。

  少し横道にそれるかもしれませんが、発明とか発見というものは何の前触れもなく、ある人の頭にひらめくものであるかどうかを考えてみればいいのではないかと思います。歴史に名を残している人も実際は、多くの無名の人の研究から得られた知識を土台として、その知識を常識として、ある現象とある現象を結び付けたら新しい法則が見つかたというにすぎないのです。もちろん、それに至る本人の努力というものは並大抵のも のではありません。しかし、多くの無名の研究者の情報が生かされて、人類はこのように発展してきたことを忘れてはなりません。

  このように考えていくと、たとえ今は無意味に思われる研究も、それを自分の社会的な役割だと認識することによって大きな価値を持つのです。その心を持つことが生きがいに通ずるものであると私は考えるのです。

祐天寺住職 巖谷勝正「明顕雑想 第一集」より抜粋
Posted by 植松友彦 at 2:17 午後
Categories: ぼやき, 研究思想